韓国モラハラ貧乏生活サバイバー

 韓国に移住して10年色々見てきた事を、何となく書き連ねていくブログです。

義実家周辺の衝撃的な50年前

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義実家は城南市にあります。

小さなお店がたくさんあって、逆に目印がなさすぎて道に迷いそうな感じのごちゃごちゃしたところにあります。

実際目印にしたお店が二つの道路に面していて、、旦那実家と間違えて違う家ピンポンしたことあります。。  誰も出なくてよかった~~!

 

義父も義母も元々は違うところの出身です。

義父はとても裕福な家に生まれました。

義父実家のお墓参りに初めて行ったときは、古墳かと思いました。

二つ並んだ小さな山が義父の父と母のお墓でした。

 

義母もやはり裕福な家に生まれ、たくさんの兄弟と暮らしていました。

勉強が嫌いであまり学校には行かず、家で掃除と裁縫ばかりしていたようです。

 

義母の兄弟で唯一面識のある妹さんは今でもかなり活発な人です。

わりとめちゃくちゃな事をしても上品さがどうしても残ってしまう義母とは違って、もう明るさと活発さと強引な人の良さが全面的に出てる人です。

 

関係ありませんが、みのもんたそっくりです。

 

やはり妹さんも勉強は好きではなかったようですが、義母と違うところは両親に

”学校行ってやるから金よこせ”

と言い、かつあげをしていたというところでしょう。

 

すごい小学生です。

 

 

義父と義母は20歳くらいで結婚し、とあるところでスーパーをしていました。

その辺でたった一軒のスーパーでとても裕福だったそうです。

 

義兄義姉の1歳2歳くらいのセピアの写真を見たことがあります。

そんな古い写真からでも洋服の生地の上等さが伝わってきました。

うろ覚えですが、義兄は革のハンチングとスーツで義姉は薄い色のワンピースだったような。。

 

そんな裕福な生活をしていたある日、義父が知り合いから一緒に事業をしないかと誘われ随分投資をしたそうです。

 

それが詐欺でした。

 

スーパーを売り払い、行った先が城南市でした。

城南市は2014年にユネスコ文化遺産に登録された南漢山城(ナマンサンソン)のあるところです。

以降聞いたままのお話しです。

今か50年ほど前、南漢山城は廃れ虎が鳴いているようなところでした。

当時の大統領がその周辺の土地を細かく分け、お金のない人々に与えた、とのことです。

 

義父母はそこに引っ越しました。

 

当時は義実家も寝転ぶと空が見えるテントのような家だったそうです。

横になり空を見上げながら、こんなところで幼い子供を二人抱えてどうやって生きようか。。と義母は思ったそうです。

周囲で色の白い人は義母のみ。

トイレは近くの駅に一つだけ。

なのでどこででも用を足す人が多く、生理のときも誰がそうかわかるくらい匂ったといいます。

盗難も多く、お金なんか持っていたら周囲の目が怖かったそうです。

 

義兄義姉は毎日山に水を汲みに行ったそうです。

棒の両端に桶のついた時代劇で見るような道具で。

揺らすと水がこぼれるので大変だったそうです。

 

そういう水くみがアフリカでなく隣の国であったなんて。。

 

なのである程度の価値観は違うでしょう。

なので一方だけが合わせるなんてことは到底無理でしょう。

 

当初努力して明らかに悪い方向へ行かないといけないことに、義実家全体からそれを強要されることに、なんともいえないものを感じました。

 

米を食べろと強要され一時体重も20キロ近く増えました。

食べないと大きな声で争いが起きました。

大きな声のなか、私がひとり黙々とご飯を食べると声はやみました。

 

全てにおいて耐えるのが当たり前だと義実家以外の人から、周囲の日本人妻達から言われたら、もう何が何だかわからなくなりました。

 

去ることももちろん考えました。

 

今でもどうするべきだったかはわかりません。

その生活があって最愛の人が生まれたのですから。